今朝Twitterで見かけた、写真家で、カメラのドレスアップやオールドレンズ撮影で著名な澤村徹さん(フォローしています)によるご自身のブログの紹介がとてもグッときたので、Facebookでリンクシェアしました。
思いの外様々な方からコメントをいただきました。ありがとうございます。この文章を書いている現時点でコメントをいただいた皆様へのお返事をしていませんが、先にブログにて。
リンク:ぼくらはノートリミング主義を笑えない by 澤村徹さん
私なりに要約します。
澤村さんは写真を加工するもしないも、自身の写真に対する表現方法として処理している。かつ、商業写真のほとんどは、ノートリミング主義の人から見れば、眉をひそめるような加工が行なわれている事実もある。しかし写真を取り巻く絶対的価値観には、加工していないことこそ正義、と考えている人が多い。その意見を汲み取りつつ、自身の表現を見つめたい。
ということかなぁ。
まぁ、澤村さんとはお会いしたことがないので、私がこのブログで何を書こうと、かなり暖簾に腕押しなことはさておこうっと。
なぜ日本人は「ダークサイド」に落ちたのか?
澤村さんのブログ内の2点について、んんん?と思った文章がありまして、次の通り。
引用ここから
「なぜ人は写真加工の有無について自己申告するのか?」というものだ。中略。そう、写真加工は良いことなのか、それとも悪いことなのか、という問題だ。
引用ここまで
これは簡単に斬っておくと、ひとつに「免税符」でしょ。もうひとつが「自己主張」(含む教示)でしょ。
で、次の方を取り上げたいので、もう1点の方も引用します。
引用ここから
誤解を恐れずにあえて書こう。人は誰もが「写真は無加工であるべきだ」と思っている。撮ってそのままの写真こそがもっともすばらしいと、多くの人は信じて止まない。ぼくらを取り巻くありとあらゆる写真が、すべて加工済みであるにも関わらずだ。
引用ここまで
まぁ、「誤解を恐れず」という前提なので、私が誤解しているのかもしれないけど、私としては
人は誰もが「写真は無加工である」と信じている。
かな。「無加工であるべきだ」とは思っているよりも「信じている」方がデファクトスタンダードな考えだと思うな。
その原因を作っているのは「Photograph」が日本へやってきて、そのまま英単語を分解して翻訳した「光画」という言葉もあったけど、写真のプロセスを見て、できあがりのプリントと実際の被写体(人なのか風景なのかはこの際どうでもいい)を見比べておったまげだ「誰か」(写真史を勉強したつもりだけど、誰が発明した言葉か知らない)が、「この技術は、まるで目の前の事実、真実を写し取っている」と感じて「写真」なんて言葉を口にしたのだと推測しています。で、日本人の気質的に「光画」よりも「写真」の方が合っていたんでしょうな。現在に至るまで「写真」が「Photograph」の訳語となっています。
ちなみに、私が米国で写真の大学院にいた時に、この話を評論のクラスで話題にしました。当時New York Timesの美術や写真関係記事を担当していた先生他友人も声を揃えて「写真に真実なんて写っていないのに!」と大笑いでした。
閑話休題。
日本に澤村さんの言い方をお借りすれば、「ノートリミング主義」私的には先日の通り「撮って出しJPEGで撮ることが最良と考える人」が多い一つの要因は、いわゆる「コンポラ写真」が大流行して、多くの「ノートリミング主義」な写真作家が世に多く出て、アマチュアの憧れのひとつでもあったことでしょうね。
「小型カメラでの撮影で、トリミングするなんてナンセンス。小型カメラ特有の機動性を重視してパッと構えてパッと撮る。ピントはおよそ構える前にカメラを見ずに合わせておき、被写体に対するレンズの画角を足で調整して撮ることが作法だ。この一連の流れるような動作は、居合斬りにも通じるのた」
というような精神力かな?
で、私の親世代がそれできて、その世代の中の写真が上手い人って言われる人が「先生」となって我々を教え(学校ではそんなことやりませんよ)、また次の世代へ、と一子相伝の継承技のように唱えてきたのだと思われます。
このような流れでできあがったのが「ノートリミング主義」いや「ノートリミング信仰」かな。
はぁ。
さらに時間が流れて、フィルム時代からデジタル時代へ入りました。
一般的に手が届きにくかった写真の過程の内、現像処理とプリント処理が、明るい部屋で、無限アンドゥでトライ&エラーがやりまくれる環境が手に入りました。手に入ったものの、楽に加工(というかプリントまでの処理)できるようになると、必ず出てくるのが、アンチテーゼって奴かと。
デジタル写真となって簡単に加工ができるようになった時代だからこそ、無加工が「写真」つまり「真実を写す」という表現の本質なのだ、という主張が展開されやすくなるのである。と、私は考えるんだな。
私は前回同様プラスアルファで言うと、写真とは「表現」だから、自己追求の責任としてなんでもやる。例えば自分が求める「表現」が過度だったとしても、見るものが「加工なんてしていないはず」とか「加工しているようには見えない」と思ってもらえるような「騙す」ことができたら、最高だな。と思うね。もちろん「表現の一環」としてなので、加工も選択肢のひとつに過ぎないわけだけど。
ちなみに、先ほど「Photographは、光で描いたものであって、そこに真実を伝える表現方法ではない」とわかっている欧米人も、ファッションや広告写真の中でモデルに対して、痩せさせたり、胸やお尻を強調したり、といった過度に加工した写真を「理想の体型ってこれなんだ」と信じてしまって、自分もそこに近づこうとする人が妙に出ちゃうことが問題となって、フランスでは「写真の加工禁止」の法律ができちゃって、先日施行されましたね。おぃ、表現の自由はどこへ行った?
閑話休題。
ということで、澤村さんは「写真は無加工が理想という価値観」という部分を認めつつ、そこへ迎合するか否かを書かれていましたが、私にしてみれば、その「写真は無加工が理想という価値観」そのものが「無価値」で「滑稽」と思っているので、あえて言えば日本では「写真」と名付けられてしまった日本人の持つ正義感に対するダークサイドですね。向こう側立つ人にとっては、私の位置が「ダークサイド」なんでしょうけど、私にしてみりゃ、そんなところに落ちたくないって感じ。
コンポラ写真というかノートリミング教の始祖と崇められている(ように見える)、スナップショットで決定的瞬間の神様、アンリ・カルティエ=ブレッソンは、確かにノートリミングが多かった。けど、彼の代表作で決定的瞬間としても一番有名な「サン=ラザール駅裏」の写真は、大胆にトリミングしていますよ。そしてブレッソンの写真の全てをプリントしていたラボ屋さんのガスマンは、そりゃーもう凄まじいテクニックを駆使して(指示もあるし)、焼き込み、覆い焼きに始まり、現像処理中の加工まで、様々にやっていましたよ。どこにも「無加工主義」は入っていないし、彼自身「無加工が写真の理想形」なんて思っていなかった(製作過程からの推測だけど)でしょう。
ということで、ダークサイドに落ちているみなさまへ、早く明るい部屋へ戻ってきてください。そして一緒に楽しい自由な表現で写真を制作していきましょうよ。
iPhoneで撮影した「美味しい」テクスチャー
今度これを使って写真を「加工」してみようと考え中