2001年9月11日朝は、人生でも最悪な朝をニューヨークで迎えました。
眼前に見えるテロの標的となってしまったワールドトレードセンター。我に返って、そうだ!連絡を取らねば!
宮本先輩の固定電話の受話器をあげる。不通。
今回このプロジェクトのために、土屋会頭と共に、auの携帯電話を普段使いのdocomoとは別に契約しました。それは当時、日本から海外へ持って行った携帯電話で、現地の携帯電話回線へローミングサービスできる「ワールドウォーカー」が始まって、これをニューヨークで使おうってことだったんです。
で、電話をかけると、数回のチャレンジで繋がりました。まだ今みたいな回線数じゃなかったからかもしれません。安否確認をして、土屋さんから「今いるホテルで待機しよう」と言うことになりました。
次に妻へ連絡。日本は同日の夜です。携帯電話から通話を試みるも、繋がりません。もしや!と思ってPowerbookを開けて、データ通信を始めると、あっさり繋がりました。今でも不思議ですが、固定回線の通話はまるでダメなのに、データ通信は100発100中でしたね。で、メールを書きました。さすがにこの段階で日本でもニュースになっていました。全員無事を書くと、思わぬ内容のメールが来ました。
「信濃毎日新聞から連絡が来て、写真家の中嶋さんならきっと写真を撮っていることでしょう。なんとか送ってくださいだって!」
一体どうやって短時間に私がニューヨークにいることを知ったのか、今でも謎です。まあ、青年会議所メンバーに、信濃毎日新聞社の人もいましたが、どーなんでしょ。
さて、くださいって言われてもね。
頭の中では、段取りはできています。持って行ったカメラは、ニコンのD1。ビデオは、ソニーのハンディカム。今でこそ「データはサクッとメールに添付で送る」なんて日常茶飯事ですが、当時はメジャーな話じゃありません。それでもと思って、たまたま持って行ったコンパクトフラッシュをPCカードにするアダプターを使ってPowerbookに取り込んで、Photoshopでメールに添付できるぐらいの圧縮率に変更して、妻から転送されて来た信濃毎日新聞記者らしきメールアドレスへ添付して、ただでさえ不安定なファックス並みのモデム経由データ回線で、ゆっくりゆっくり送りました。
ここまでやってから、ひとまずの荷物を持って外へ出て、42丁目のホテルに向かおうと思いました。
アパートを出てすぐ近くが、ユニオンスクエアです。既に人がいっぱい。それもほぼ全員がダウンタウンからアップタウンをめがけて歩いています。イエローキャブの空車は、一台も見つかりません。まあ、距離感はあるので歩来ました。
人の波は、まるでマラソンの一般参加の列のよう。ただひたすら前を見て、皆同じ方向へ向かって緩やかな登りのサードアベニューを歩いて行きました。
30分ほど歩き、土屋会頭他メンバーが泊まるホテルへ到着。部屋にて、妻から土屋さんの奥様宛に無事であることは伝達済みと報告していた時、私の海外用の携帯電話がなりました。白黒の液晶を見ると、セクレタリーチームの室長から着信。
「ひでまか?土屋さんは無事か?」
「はい!」
ツーツーツー。
話せたのはこれだけ。電話は勝手に切れてしまいました。
帰国後にこの時の状況を聞いて見たら、室長の念の一撃だったそうです。この時、長野青年会議所の役員の皆様と室長は「会頭とひでまはニューヨークだね〜」なんて話を肴に居酒屋にいたそうです。その中で知った、ワールドトレードセンターへの大規模テロのニュース。泡食った、と言う言葉がぴったりで、居酒屋のテレビを客全員で食い入るように見ながら、私へ役員が代わる代わる電話を試みたものの、繋がることはなかったと。痺れを切らした室長が「俺がかける!」とかけたら1発でかかったそうです。
と、ここまででおよそ2時間、午前10時ぐらい。
帰国までのエピソードはたくさんありますが。今年はここまで。
同じ写真ですまん!
見つからなかった。