電話は突然鳴るものだけど、訃報の連絡は本当に受けたくない。
昨年、友人から電話が来た。珍しいな、と思ったら、信じられない言葉がスピーカーの向こうから聞こえてきた。
「敬文さん、亡くなった」
もうね。言葉にならないってこの瞬間のこと。
宮本敬文(みやもと・けいぶん)
享年50歳
平成28年8月3日(水曜日)21時47分 永眠
出会い
日芸の3年生、澤本徳美教授のゼミが始まる。教授が「今日はゲストが来たんだ」と、華奢で髪の毛が七三で鋭い目をした男性が教室に一緒に入ってきた。
「宮本敬文です。今ニューヨークのスクールオブビジュアルアーツの大学院で勉強中です」
ニューヨークの写真の話、授業の話、生活の話など、時間いっぱい語ってくれた。
私自身は中学生の頃に、日芸を卒業したらニューヨークで勉強する、と決めていたので、授業終了後宮本さんにそのことを伝えた。
「今は大学の授業をしっかりやって、たっぷり写真を撮って、ニューヨークへおいで。来たら僕が力になってあげる」
と熱い目で僕を見つめながら約束してくれた。
宮本さんは僕の5つ上なので、日芸では一緒ではなかった。でも、きっと写真の神様が、たまたま宮本さんが日芸への表敬訪問日が澤本教授の授業の日で、たまたま澤本教授の唐突な「ゼミへ顔を出してくれ」の願いを受けてくれた、そんな引合せをしてくれたんだと、今でも思う。
再会
僕も大学を卒業し、そのまま渡米。ニューヨークには幼馴染が住んでいたこともあり、即宮本さんにお世話になることはなかった。僕は自分の英語力の無さから、一旦School of Visual Atrsの1年に潜り込んだ。
ニューヨークに住み着いて、学校もぼちぼち通って、しばらくしてから宮本さんに改めて連絡をした。渡米前の手紙以来だった。ニューヨークに来たことを非常に感激してくれて、即ブルックリンの家へ呼んでくれた。ちなみに、彼の車は中古のヴューイックの4ドアセダンだった。
年末ぐらいだったかな。そろそろ来年のこと、つまり大学院へ入学することを視野にした進路相談を、宮本さんにしていた。大学院写真学科学部長のチャールズ・トラウブを紹介してくれて、僕は今でも信じられないようなプレゼンをして、大学院入学を決めた。
アシスタント
宮本さん自身、Master of Photographyを卒業して仕事を始めて4年目ぐらい。そろそろひとりで仕事をするよりもアシスタントを使って大掛かりにやりたいと思っていた時期に、ちょうど僕がいた。もちろん僕の前にもスポット的に宮本さんのアシスタントをしていた人は複数いたようだけど、授業とぶつからない限り僕がレギュラーで呼ばれるようになった。まぁ、自分で言うのもなんだけど、写真の知識と気遣い方と、何よりも宮本さんのクライアントや被写体に対しても失礼な態度を取らないから、と言われたよ。それと、当時宮本さんは、バルカーというストロボを使っていて、その使い方をしっかりと僕ができたこと、沢山ある機材の収納、特に黄色いプロテックスというバッグにきっちりと機材をしまえるのはひでましかできない、と言われたことかな。
僕もMaster of Photographyを卒業して、宮本さんから少し紹介してもらって、ニューヨークで仕事を始めた。でも前に書いた通り、母からの悲痛電話が突然来た。頭の中はグラングラン。宮本さんに相談した。
「今、お前は仕事をこのニューヨークで始めた。ここまで来れたのは、親のおかげだ。親には感謝しなければならない。しかし、ここから先生きていくのは、お前の人生だ。会社には社員さんがいるんだろ? もう自分の道を、夢に見ていた道を歩んでいくことでいいんじゃないのか?」
本当にグラグラの2乗になるような言葉が返ってきた。しかし、その言葉に反して、帰国を決めた。
宮本さんとの仕事は、都合3年ぐらい。毎日じゃないけど、さまざまな撮影を一緒にできて、本当に良かったと思う。どんな撮影だったかを書くわけにはいかないけれど、超有名なあの人とか、あの人とか、あの人など、どんなライティングでどんなことを宮本さんが考えながら撮影していたのか、今でも目を閉じれば詳細に思い出せる。そんな素敵な経験を与えてくれた。
あ、そうそう。与えてくれたといえば「本当は俺が行きたかったけど、譲るわ」と言って、日本から来た広告写真家さんのアシスタントを紹介してくれたことがある。被写体は、マライア・キャリー。SONYのウォークマンの広告写真撮影で、僕がアシスタント兼通訳として現場に入った。ま、いずれ書こう。
閑話休題。
ぶんちゃん、さようなら!
宮本さんも日本に拠点を移し「俺、今日本で一番売れている広告写真家だから」と言って、軽井沢の別荘に家族で来た時には、そのまま足を伸ばして僕のスタジオにも来てくれるようになった。
ある時、弘子奥様と話していて宮本さんのことをなんと呼んだらいいか心の中で悩んで「師匠」と呼んだことがあった。次の瞬間に、怒られた。
「ひでま!俺はお前の師匠じゃない。親友だろ!」
その時には「はい!」って言ったけど、見送った後に涙が出た。
多分宮本さんのアシスタントをした人たち(通称「宮本組」)の中で、僕ほど多くの呼び方を使った人はいないだろうな。宮本さん、先輩、ぶんちゃん、ぶんぶん、けいぶん、ケイブニー、兄貴、兄さん、数回だけ師匠、etc。TPOはもちろん考えてだけど、いっつもニコニコしてくれていた。
残念ながら、宮本さんが日本で仕事をしている時に、その現場へ行くことはなかった。「またアシスタントをやりたいです」と頼んだことはあったけど、実現はしなかった。正直、心残り。
私の写真の技術の基礎、コミュニケーション術、人生、他いろいろを教えてくれた素敵な先輩は、旅立ってしまった。もっといろいろお話ししたかったな。
Goodbye! Keibun!
去年のお葬式
全てが終わって、帰りの電車の中。
宮本さんの事務所「ウイスキースタジオ」のTシャツを着た「宮本組」のみんな。