シリーズ第1弾:私がSONYを使う理由
初めての大きな賞をいただいた話
前回書いた通り、ニューヨークで大学院生だった頃は、主に8x10カメラを使い、白黒フィルムで撮影をしていました。卒業論文と制作のためでした。被写体は、ブルックリン橋でその真下にある文化をイーストリバーと共に撮影していました。
日芸にいた頃にはMacの存在を知っていましたが、本格的に触りだしたのは、NYで学校に通い始めてから。通っていたSchool of Visual Artsは、私学らしく最新機材がそろっていた学校で、学生が最新のMacを存分にいぢれるようになっていました。最新と言っても、Macintosh IIシリーズで、一番速かったのがFXという子。当時のPhotoshopは、2.0です。もちろん英語版。主な保存先は、1.44MBのフロッピーディスクw。大学院へ進んだ頃にはようやくデジタルカメラバックが導入されましたが、写真の入力といえば、フィルムをスキャンして取り込む方式ですね。
作品制作としては白黒プリントでしたし、調子に乗ってプラチナプリントとかにも手を出したりしていましたが、並行してデジタルも勉強していました。
ある時父から連絡がありました。
「今度APA(日本広告写真家協会)で公募展をやるから、出してみろよ」
それまでの公募展といえば、規定サイズにプリントした写真がターゲットでしたが、今回は「なんでもアリ」がコンセプトだから、私がやっていることはきっと日本の写真界に衝撃があるよ。というアドバイスだったのです。
さて、今では大判インクジェットプリンターとはごくごく一般的な製品ですが、1994年当時は存在しているかしていないかの誕生時期でした。余談ですが、IRIS(アイリス)という紙をドラムに巻きつけて回転させてCMYKのインクを吹き付けて印刷する新聞紙大ぐらいまでプリントできる方式、Kodakが作ったA4よりちょっと大きなプリントができる昇華型が主だったデジタルプリントでした。しかしながら、我が大学院にはCactus(カクタス)という、大判インクジェットプリンターが、その開発者の提供で設置されていました。幅がおよそ100cmぐらいのロール紙にCMYKのインクを使って印刷することができました。先のIRISよりも安価に大きくプリントできるので、院生の間でも人気のプリンターでした。
で、私は、その当時8X10のプロジェクトで撮影したカットの中で、1番評価が高かった写真のフィルムをフラッドヘッドスキャナの最高画質で数時間かけてスキャンし、デジタルの階調や色合い(白黒ベースですが、若干色を付けた)など、どのような設定をすれば「カクタスで最高画質が得られるか?」も研究しており、その結果で得た大判プリントと、それをどのように展示したらコンセプトが効果的に得られるのかを考えて、作品を作りました。そのプリントと設計図を父へ送り、APA公募展へ出しました。
結果。審査員だった池田満寿夫先生(長野市出身ですが、私は面識無いし、妙なパワーも無いですからね)が大絶賛をしてくださり、見事奨励賞をいただくことができました。その時の詳細は、また別項目で書きます。ここまで書いたのですがw。
ということで、私のNY生活時代は、カラーも白黒フィルムも下は110サイズから8x10までのフィルムを使い、自分でプリントをしつつ、最新技術としてのデジタル写真も存分に勉強することができました。
帰国の話
アメリカで外国人が正式に働くには、ふたつの方法があります。ひとつは永住権、すなわちグリーンカードを取得すること。もうひとつは、働けるビザ(Bジャンルのビジネスか、Hジャンルの特殊技能か)を取得することです。実はもうひとつビザの中に特殊な方法があって、アメリカの大学以上を卒業すると「プラクティカルトレーニングビザ」という働けるビザを取得することができます。これは一生に1度だけ、1年間の期限付きのビザです。
私の人生計画としては、アメリカでそれなりに働いてから帰国しようと思っていました。一旗上げてやろう、ってヤツです。
宮本先輩から、彼が受けきれない仕事をもらいながら、仕事を増やし始めた頃、母から一本の電話がかかってきました。
「父さん、ガンなの。もう助かる見込みが無いの。帰ってきて!」
という悲痛な電話でした。
私は1度帰国拒否をしました。父が入退院をしている中、それも告知もしていない状況で、会社は回っている。私は私の人生を歩んで行きたい。
しかし、最終的に断腸の思いで宮本先輩や各クライアントに頭を下げて、帰国することにしました。
1996年の頭です。
そして父は5月に旅立ち、正式に会社を引き継ぎ、結婚も予定通りしました。
社長に就任してからのデジタルな話
さて、当時の「写真屋さん」といえば、撮影はフィルムカメラです。弊社の場合も、仕事のほぼ全てを4x5かブローニーでした。まぁ、仕事レベルで使えるデジタルカメラがそれほど存在していなかった、といえばそうですね。しかし私は、虎視眈々といつデジタル化しようか、狙っていました。
最初はお遊びレベルなデジタルカメラでしたが、業務としては、フジフイルムの一体型からスタート。次にハッセルブラッドやフジの6x8といったブローニーカメラのフィルムマガジンの代わりに取り付ける、イスラエルのLeafという会社の「キャッチライト」というデジタルバック。その後同社から「カンターレ」が発売となり、即飛びつきました。これをしばらく使っていましたね。これは、いわゆるフルサイズの24x36mmのセンサーで、約600万画素でした。その頃にしてデジタルカメラで写真館業務をしていること自体が珍しく、業界紙のスタジオNOWに取り上げていただいたりもしました。
1999年9月に発売となった、ニコンの「D1」が、もちろん当時Kodakやキヤノンからも1眼レフ仕様のデジタルカメラがありましたがすごく高額という中で、65万という価格で登場しました。APS-Cサイズセンサーで約266万画素。確か発売から半年ぐらい経って、購入したと思います。帰国前から、オートフォーカスの一眼レフはキヤノンを使っていたのですが、価格に魅力を感じてニコンを買いました。この子には、強烈な思い出があるのですが、それはまたいずれ。
2001年の夏前ぐらいだったかな、それ以前から発表されていたKodakの「DCS Proback」が発売になりました。当時APS-Cサイズや少なかったけどフルサイズセンサーを積んだ一眼レフもありましたが、600万画素以下。ま、カンターレと同じぐらいでしたけど。業界の期待を背負って発売となったプロバックは、36x36mmで約1600万画素ありました。これでようやく写真館業務の機材として「使える」クオリティを持つことができました。これは2005年まで、使いまくったなぁ。
2002年に、キヤノンから待望のフルサイズ「EOS-1Ds」が発売となりました。が、買いませんでした。その代わり、というわけではありませんが、2桁シリーズの第二弾のD60を購入し、ここでD1は引退となりました。これ以降は、キヤノンをまた使い出しました。ある意味、新機種が出たら、リプレイスみたいな。でもフルサイズの1Dsは憧れのような存在と思って、んー、値段からして買えないわけじゃなかったけど、なんとなく手を出さなかったし。
やっと「使える」というか「買える」フルサイズの一眼レフデジタルが、2005年9月に発売となりました。キヤノンの「5D」です。これに、どーんと飛びつきましたね。一眼レフタイプ、というか、やっぱりハッセルにプロバックという組み合わせはカッコ良かったですが、ちょっとした時にAFを使っているし、それはそれは「楽」な操作性でしたからね。そして、5Dが約1280万画素で、プロバックは正方形なのでプリントサイズ的に使うと1200万画素ですから、似たような(アスペクト比は違うけど)画素数になったことで、踏ん切りがついたとでも言いましょうか。
続く。。。
あ、SONYの話まで書けなかったw